ニーチェは運命愛を信仰し、人生のいわば虚無という価値観であるニヒリズムに陥っても、仮象と見做して積極的ニヒリズムに立ち返ることを愛する、という段階を確立した。
誰かが行為せずとも、台風によって家屋が破損されるということがらは、あり得るケースであろう。
こうした行為の自由による物体の破損は少なくないが、私たちの影響とは別の外在影響が物体等を破損させており、私たちが原因とは別の原因があることもまたたしかである。私たちの行為を執行するには易しくない家屋破損という出来事も、外在影響により起きてしまうということがらがまたたしかにある。私たちがホテルを破壊しようと試みても、そう易しくないが、地震や台風によってホテルが倒壊するということがらは否定するに足りない。私たちが自由に破壊行為を試みることを厭わなくても、自然災害が私たちを呑み込むということがらより大きな成果は出ないであろう。この自然災害を私たちが自由に食い止めようと決意しても、そのすべてに歯止めを掛けることは困難であろう。地震対策をしっかりしている家庭においては被害を最小限に止(とど)めることは可能であろう。これは自由に地震対策ができるという前提の備えであろう。私たちは自由に暮らしを続けるべく、自由に自然災害対策を取る必要がある。家を吹き飛ばされては自由を語ってはいられまい。しかし物体破損も運命愛によって肯定されるべくものではあるまいか。
物体破損の運命愛は出来事の意味を積極的ニヒリズムとして見出すことに主軸を置く。自然災害も運命愛によって肯定的に考え、自由を新たに構築していく、ということがらも見出す。家がなくなっても自由を語っているくらいの運命愛者が意外と幸福度の高い存在であろう。コップを壊してしまってニヒリズムに陥ることは特に問題はない。問題点はニヒリズムから立ち上がることであり、──積極的ニヒリズムでも構わない──私たちは超人のように乗り越えていくことなのである。