トロッコ問題をご存じだろうか。ひとりを救うと五人はトロッコに轢かれ、ひとりにトロッコが来るようにレバーを押すと、五人は救われる、というもの。
復活のできるひとりを轢かせると、五人は救われるし、ひとりは轢かれるが復活してしまう。ひとりは命をひとつマイナスすれば五人を救えるという自覚に立ち、「俺を轢いてくれ」と主張するであろうか。
痛くなかった死亡事故をひとりが痛くないなら任せられる、という考え方もある。ひとりがトロッコに轢かれても痛くなかったからよしとする考え方である。
五人が痛くないなら五人が轢かれればよい、という考え方は功利主義に背くであろう。五人が自然に轢かれることが懸念されるなら、ひとりを犠牲にしてはならない。
ラカンの鏡像段階というものがある。幼子が鏡を見てその[自分の]表象を自分の顔[のあり様]だと認識し、自我的に発達するというもの。
鏡の自分の表象を確認して曖昧だった[自分の]イメージを統合していく段階である。鏡に映る他者の映像は他者の姿であると認識し、自分と他者との差異を見出すことが可能となる。
鏡に映った他者(自分)の像を自分の像であると同一視することで身体性を獲得する。ああ、さっき映っていた像は自分の像なんだなぁ……。これが同一視の重要性であろう。
エディプス期において鏡像段階はしばしば出てくる理論である。子は母の性器のないことに気付き、父は同じようなファルスを持っていると芽生える。子は自身のファルスが去勢される心配を抱くようになる。子の母への発散が去勢をより不安にさせる。