ウィトゲンシュタインの「世界は、成り立っている事柄の総体」である」から考えていきたい。
まず物の総体と書いてしまうと何がいけないのか。机、猫、コップ、りんご、これらはモノであり、私たちの周囲にはモノで溢れていることが窺える。
「なんだ、様々なモノの総体がこの世界じゃないか」という意見を出す方もおられるかもしれない。それも一理ありそうである。パソコン、服、眼鏡、マスク、これらはモノだし、モノの集合がこの世界っぽいよなあ、と考える方もおられるかもしれない。
しかしここで問いがある。「物はたくさんあるけどその物の軌道はどうなのか」、と。
この問いは、「たくさんある物が動くとき、その動きを物だけで説明することはできない」、ということを想像させます。
私たちが車に乗って運転した際に、アクセルを踏む、車の前輪が起動する、という一連の動作を物が動くという事実なしに説明することは野暮であります。
物が動くということがらを説明しない「世界は物の総体である」という名目では、限界が生じる、ということになります。
唯物論観から語る「世界には物質しかない」という言葉も、ウィトの論考の1.01によれば簡単に打ち崩されるのではないか。「世界は成り立っている事柄の総体である」というからには、「世界は物の総体である」と主張するわけではない。
この世界は至る所で「モノ」だらけである。しかし、内なる声を聴き、成り立っている事柄に注目してみよう。世界が平和になる、という事柄にも注目してみよう。
世界が平和になる、という事柄は、「モノ」ではなく「コト」である。
この世界平和を思うとき、静的な感覚を得られるかもしれない。