何か対象があったとしよう。その対象を主語で表したとしよう。しかし、その主語は何を表しているのであろうか、という「厳密主義」が浮かび上がってくる。
りんごを見て「りんごがこれだ」とりんごに指を指したとしよう。しかし、「りんごはこれだ、というときのこれとは「何を指すのか?」」という懐疑主義が立ち現れる。
これはりんごだ、というときの「これ」とは「何を指す?」という質問があるのだ。
読者はすぐに、「こういうように今見えているこういうりんごがこれだ」と応えるかもしれない。しかし、こういうようにという表現もまた曖昧性のある言葉である。
質問「こういうように今見えているこういうりんごとは曖昧ではないか?」
読者は、「今赤く見えている表面を有するこのりんごが今見えているりんごだ」と言うかもしれない。
なるほど、有する、という語を使えば説明できるのかもしれない。
他に、
質問「この「白い帽子」は何を表すか」
読者「今見えているこの白い表面を「有する」帽子が今見えている帽子だ」
なるほど、説明できている。