実在論 りんごがあるとは言えない!?

目の前にりんごがあり、私たちはそのりんごが赤く見えるとしよう。

 

それではりんご何色なのであろうか。

 

皆さんは「当然、赤色だ」と思うかもしれない。

 

しかし待って欲しい。プレデターにはりんごが青色に見えている、という知識があったらどうだろう。

 

赤色か青色、どちらが本当の色なのか、慌ててしまうかもしれない。

 

プレデターにはりんごが青色に見えるのなら青色というのが落ちなのかというと、そうとも言いづらい。人間には赤色に見えているから、この赤色という落ちを信じたいはずである。それにしても、この題材のりんごは赤色を纏っていると証明することはできない。ふむ、幻覚を見ている可能性もある。りんごが幻覚ではなくても表面が幻覚である可能性もある。

 

このようにりんごを見ているという前提に幻覚が関与するとはいささか腑に落ちないと言われるかもしれない。しかし、今回は幻覚の可能性の提案を試みてみた。

 

りんごがあるからりんごが見えるという大陸合理論があるのに対し、りんごに見えるからりんごがある、というイギリス合理論がある。どちらも証明はできないが、カントはりんごに見えるからりんごがあると思える、と考えた。りんごに見えても幻覚であってはりんごがあるとは言えまい。

 

実在論では『われおもう、ゆえに、われあり』という風刺を重視する。おもう、ということはどういうことなのか。おもう、という事象さえ証明できないし、われは(私は存在しないを参照)存在しない。実在論ではわれはいる、という形を真実とみるが、ヒュームはわれはいないという立場をとった。ヒュームがどれだけ賢かったか、現代では広まっていないかもしれないが、デヴィット・ヒュームという哲学者は懐疑主義や経験論主義という立場をとった。