存在の形相と質料による形成態、すなわち本質態それ自体の本性をどのように汲み取ることができるか、という点をトマスは考えた。
私は希望論でトマスの思想の一部を扱ったが、いわば本性の希望というものも抱いていたようである。
本性が心的内容の事象であるとトマスは考えた。心は目には見えないから、神秘的なものとされた。
質料の特定という本質回帰も考慮し、質料を発覚することを目指した。形相においては外観を把握することで済む、とされた。
特定できない質料や因果関係、本質、直観、という概念や事態(斎藤ひとりさんいい 意味)を不可能性の所在と考えた。
本性も特定できない、ゆえに不可能性の事柄と考えた。怒りやすい本性というのはトマスの求める内容ではなかった。
神という物自体的な存在の質料、形相もまた把握することは、経験できないであろうから不可能性の所在であると考えた。しかし、経験できないものの信仰することはできるであろうし、世界の諸々の事物の形相因を神に委ねた、とされる。
神の世界設計的行為をこの世の中の成り立つ第一原因と考えた。
この世の中の成り立っている事柄の一部の原因は人間が原因なのかもしれない。
しかし一部の原因が人間が原因であれど、最初の原因は人間が原因ではなく、神に第一原因を求めることが妥当であるとトマスは考えた。
第一原因を求めるという説明原理としては、原因というものはあらゆるところで蔓延っている。因果の連鎖というものは私が母によって生まれ、火をつけたら燃えるという、因果の連鎖が見出される。この因果関係を無限に遡っていくと「最初の原因」という「神の世界設計的行為」を懸念する。この理性では到底対処不可能な事柄をトマスは「信仰心」によって実生活をよりよくしていくことを考慮した。
しかし、「最初の原因」に神が関与していたと仮定しても、その神を生み出した原因もあるのではないか、という反駁があり得る。トマスは「第一原因」が神と関与すると、正当な根拠もなく述べている。第一原因と述べている以上、第一原因の原因は何か、という問いは不自然な感じがする。しかし、第一原因かは置いておいて神はどう生み出されたかは、未だに謎が残り、信仰することで理性を超越するほかはない、とした。