ブッダという言葉は ”目覚めた人” を意味する一般名詞ですが、 仏教用語におけるブッダは厳密には ”自力で悟りを開いて、かつ、教えを広めた人” を意味しますし、そうシンプルな説明で済むような話ではありません。 まず、東南アジアを中心に普及している伝統的保守的仏教(=南伝仏教、上座部仏教、テーラワーダ、小乗仏教、部派仏教、アビダルマ仏教)におけるブッダは、数十億年に一人だけしか出現しないという縛りがある超々レアキャラのため、直近数十億年の範囲内に限定すれば釈迦ことゴータマ・ブッダだけです。 なので事実上ブッダ=釈迦と考えても問題は無いのです。 なぜならブッダになるための修行は数十億年間掛けて輪廻転生を繰り返しながら積み重ねて、ようやくブッダになれるという信じがたいほど遠大な設定だからです。 ちなみにブッダになるための特別な修行期間に入った者を菩薩と呼び、菩薩行の成就には数十億年掛かりますので、伝統的保守的仏教ではブッダだけでなく菩薩もかなりのレアキャラです。 ただし、仏教における時間は無限の過去から無限の未来まで続く終わりのない設定ですから、数十億年よりもさらに昔まで遡れば過去のブッダはそれこそ何億人何兆人と無数に居ますし、釈迦の次にブッダになる候補者もすでに確定していて、それは今から56億7千万年後に弥勒菩薩と称する者が自力で悟りを開いてブッダになります。 そして伝統的保守的仏教では悟りを開いた人はブッダの他にも2種居て、 ①ブッダ → 自力で悟りを開いて、人々に教えを布教した人 ②独覚 → 自力で悟りを開いて、誰にも伝えず人知れず死んだ人 ③阿羅漢 → ブッダの教えに従って悟りを開いた人 の3パターンがあります。 ①のブッダがもっともレアキャラで、上述した通り数十億年に一人しかいません。 ②の独覚は数億年に一人出現する準レアキャラです。 ③の阿羅漢になると同時代に数百人以上居るくらいのレアリティの低いキャラになります。修行期間はたった数年間で悟りを開けますので、釈迦の直弟子はほとんどが阿羅漢の悟りを開いています。釈迦の死後に仏教界全体の方針を決める ”結集” と称する大会議を開いた際には500人もの阿羅漢が集結したことになっています。 さらに驚くべきことに①②③の3者はどれも悟りのグレードは同レベルであり、全員が死後には涅槃に入ることが可能となります。数十億年も修行したブッダと数年間の修行でなれる阿羅漢とは、死後まったく同じレベルの境地として涅槃に入れるのです。 以上が伝統的保守的仏教におけるブッダ、独覚、阿羅漢、菩薩、のポジションです。 一方、日本、中国、チベットなどで普及している大乗仏教の設定では全然違います。 大乗仏教におけるブッダは数十億年に一人のレアキャラではなく、同時代に何十人ものブッダの存在が確認されており、そして我々凡夫でもブッダに成りたいと思えば誰でもなれるチャンスが開かれているくらいインフレ化しています。 なので大乗仏教では「ブッダ」と言っても釈迦のことを指すとは限らず、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来など、大乗仏教だけのオリジナルキャラである大乗のブッダの誰かである可能性が普通にあります。 ちなみに如来=ブッダの意味であり、称号に過ぎません。 そしてむしろ大乗仏教では釈迦はかなり脇に追いやられた存在と化しており、日本で拝まれている仏像のほとんどは釈迦ではなく阿弥陀などの大乗オリジナルのブッダです。 そして当然ながら大乗仏教ではブッダだけでなく菩薩もインフレ化しており、もともとは数十億年にわたるブッダになるための特殊な修行期間だった菩薩の設定は崩れていて、単に ”利他行をする仏教者全般” を菩薩と呼ぶことになっています。 なので大乗仏教特有なスターキャラである観音菩薩、地蔵菩薩、文殊菩薩、などのように、ブッダになるためのスキルはすでに極まっているにもかかわらず、人々を救いたいという慈悲の心があまりにも強すぎるため、もはやブッダになるという当初の目的は二の次になって、人々を救うという利他行が第一目的になってしまった仏教者が菩薩の代表的な特徴となるに至りました。 また、龍樹や世親などの歴史上実在した著名な仏教者も龍樹菩薩、世親菩薩などと菩薩の一人として扱われることもあり、菩薩のインフレ化によって人数だけでなく適応範囲も幅広くなってしまいました。 大乗仏教では菩薩がこれほどまでにインフレ化した上に本来なら悟りを開いていないはずの菩薩が悟りを開くスキルは十二分に搭載している場合も有り得ることになってしまったがために、その割りを食うカタチで阿羅漢のポジションが伝統的保守的仏教よりも一段低くなっています。 伝統的保守的仏教における阿羅漢の悟りはブッダと同レベルのステージであり、死後はブッダと同じ涅槃に入るものであったのですが、大乗仏教では阿羅漢の悟りはステージが低く、到底涅槃に入る資格は無いことになっています。 なので、同じ用語でもどの仏教の立場で見るかによって、意味がけっこう異なっている上に、設定がかなりややこしいので、単に「ブッダ」と言ってもその意味する範囲や性質が一筋縄ではいかないことはご理解頂けたと思います。