XをAと捉えるということ、そしてXをAと捉え続けること、こういう趣旨の顛末を超越論的主観性の自律という概念で考えてみたい。
XをAと捉えればもう十分ではないか、という意見があるかもしれないが、記憶としてXをAと捉えたことを保持していく、すなわち記憶の問題が浮かび上がる。記憶としてXはAと記憶し続けることが重視される。あの景色Xを憶えて保持し続ける、そういう自律が重要なんだよと。
最高的自律をすれば、超越的な記憶力が既に出来ている。私たちは主観性のうちにフィルターをかけて判断している。例えば、りんごは赤いもの、というフィルターがある。緑色のりんごもあることを肯定せず考えてしまっている。緑色のりんごを見てそうしてやっと緑色のりんごがある、と確信する。この際、緑色のりんごがあることを知らなかったことを悔しく思うことがある。
超越論的主観性においては、自分の見たことのない物体をあると想定してしまうケースが加味される。経験の外は分からないはずなのに、自身で考えて想像する。想像力が大事なのは、相手の気持ちを知ることが重要だし、さきほどの見てないのにあると想像できることが重要だから、とも言える。相手の気持ちを慮ることはア・プリオリに重要視される。ここにりんごがあるよ、と言われたら「りんごがここにあるの」と思うとして、さっきりんごについてこう思っていたな、と推測することが懸念される。りんごについて過去にどう思っていたかは「美味しい」「食べたくない」などと思っているか考えることもあるであろう。