感情とは何か

感情とは何か
清水真木『感情とは何か』(2014年刊、ちくま新書)読了。

これは、感情というものについて、心理学でなく、主に哲学によって考究されてきた歴史を紹介した本である。

「感情とは何か」という深遠な問いを問われたら、まずは「感情」が示す内容を理解していないといけないだろう。私は、こんなのが思いつく。

怒り、悦び、悲しみ、嫉妬、愛、憎しみ、嫌悪、楽しい、怖い、つらい、やるせない、切ない、なつかしい、驚き、感動、安心、気持ちいい、痛い・・・

いや、「痛い」は感情じゃない、知覚だろう。「痛い」と「つらい」は似ているが、片や知覚で片や感情だ。いや、まてよ、「つらい」は感情だろうか。感情じゃない、どちらかというと気分だな(㊟清水:理性で感情をコントロールすることはできない、感情そのものはコントロールできるものではない、コントロールできるのは気分や行動だけである)。意外と、感情って難しいなあ。感情の内容が確定しないと、「感情とは何か」なんて、そもそも問うことさえ出来ないじゃないか。

古今東西の叡智に訊いてみよう。

古代の中国では、五行説なるものがあって、基本的な感情を5つ列挙する。「怒(いかる)」「喜(よろこぶ)」「思(おもう)」「憂(うれう)」「恐(おそれる)」の五情だ。さらに、「悲(かなしむ)」と「驚(おどろく)」を加えて七情ともいう。

西洋はというと、感情の問題を最初に徹底的に分析したのは、清水氏によると、デカルトらしい。デカルト(1596-1650年)は、晩年の著作『情念論』で、情念(=感情)として40種を挙げ、その中で、「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「悦び」「悲しみ」の6つを基本的情念と呼び、これらに順序を付け、その筆頭に「驚き」を置いた。デカルトは「驚き」を感情の根源にあるものとし、その他の感情はすべてこの「驚き」から派生するものと考えたのだ。『情念論』の中では、“驚きが時間的に最初に現れる感情であり、かつ最も普遍的な感情である”と述べられている。


「驚き」といえば、古代ギリシアで最も重要視されていた感情である。ソクラテスプラトンアリストテレスも“驚きの感情は真理への通路であり、哲学は驚きから始まる”という趣旨のことを述べている。

感情って驚きのことなんだ。すっきりした。と思いきや、これで一件落着するような、哲学史ではない。デカルトと同じフランス人のマルブランシュ(1638-1715年)は、基本的な感情として、「愛」「嫌悪」「欲望」「悦び」「悲しみ」の5つを挙げ、この中で「悦び」が最も重要な感情とした。そして、「感情とは何か」という問いを初めて真剣に問うた。そして、こう述べている。

“感情とは、私の自己理解のための手がかりであると同時に身体を媒介として私が帰属している世界の真相を露呈させるもの。悦びは私と世界の間の関係についての納得の感情である”

これはすごい。感情は「私は何者か」を知る手掛かりとなるものであり、かつ、自分と世界を繋ぐ架け橋である、と考えるのだ。感情って、そんなにすごいものだったんだ(㊟清水:感情は根源的な真理の記号である)。

これで安心していてはいけない。しばらくすると、科学万能時代が訪れ、感情についても科学的に解き明かそうとする動きが活発化する。これに伴い、スコットランドのヒューム(1714-1776年)を祖とする「情動主義」という考え方が起って来た。非認知的な感情によって価値判断がなされるという考え方である。この考えが科学に応用された。

「感情の科学」では、感情をブラックボックスとみなし、その入力と出力から感情を解明しようとする。例えば、「殴る」「蹴る」などの行動、「キャベツ野郎!」「田吾作!」などの発言、「顔の紅潮」「血圧の上昇」などの身体反応を要素とする集合に「怒り」という名を与え、入力に対応する出力が集合「怒る」の要素の一つとなったときに、「Aさんは怒っている」と見なすのである。


これじゃ、知的なパズルに過ぎないじゃないか、「感情の科学」なぞでは、感情の真相を明らかにすることなど到底不可能だ、と哲学者たちからの批判が殺到した。その中の一人に、あのハイデッカーの弟子(愛人?)として有名なアーレント(1906-1975年)がいる。彼女は、最晩年の講義でこんな趣旨のことを言っている。

“感情は、「伝達可能」であるかぎりにおいて、公的であるかぎりにおいて、感情として受け止めることが可能で、単なる内面的、個人的な現象ではなく、むしろ、これが有意味な経験となるためには、何よりもまず、他人からの承認を想定して何らかの仕方で言葉へと置き換えるプロセスが必要で、このかぎりにおいて、私の感情は普遍性を具えている(㊟清水:感情は公共性への意志から生まれる)。

とまれ、感情は、一般的、科学的には受動的なものと受け取られている。が、感情について思索する哲学者は違う。受動性を本質とするものは哲学の対象にはならない。むしろ、哲学者たちは、外部からの作用に対する主体的な態度こそ自由と責任と人間らしさの前提だとし、感情を、能動と受動の彼岸に横たわる普遍的な経験の場として規定するのである。

どうも、哲学者の言葉は分かりづらい。清水氏によると、感情は驚きであり、悦びであり、私であり、世界であり、能動と受動の彼岸であり、そして真理である。とにかく、感情は哲学的にしろ、科学的にしろ、今もなお、探求しがいのある対象だということだ。