世界観を探求していきながら論理の像を描いていき、哲学として拵えて、論理命題を命立することが理性的判断なのである。この理性的判断や論理的判断は、カントの述べるア・プリオリな判断と相通じる概念である。ア・プリオリな判断、たとえば机が「机(つくえ)」であることの初めき判断、それに続くこの机は高価な机であるという理性的判断が加味されたい。理性を働かせて何製の机であるか考えてしまったり、どうすれば机を造れるか考えてしまったりすることもあるかもしれない。はたまた机に鮮やかなデザイン、すなわち脚色を施すこと、ないし机を分解することも考えることがあるかもしれない。机の可能性、すなわち貢程的可能性としては、机をどう製造するかという命目の宿題が懸念される。この机の存在価値を決めるのは、私たち現存在の存在であり、机の普遍的価値というのはないのである。もし仮に机の普遍的価値を一定のものとして置いてみると、誰しもが机に関して同じ考え方を抱き、誰しもが机に対して同じ行動をとるだろう。机の第一観念、第一印象としてはキレイな机、高級な机、という観念が発勃されることが考えられる。しかしこれは見て、感じたうえにすぎない。普遍的価値というものは第一観念や第二観念を揃えても出てくる必然性がない。言語化できないがキレイすぎた高級すぎる遺産、とでもいいそうな、そんな机も出回っていない。言語化できないほどキレイな机、という机は存在しない。
普遍的価値を言語で語れない領域に求めることも苦難である。有名なモナ・リザの絵画は、広く親しまれている。しかし誰も普遍的価値があるとは言わない。言ったとしても本当は違う。普遍的価値を認めると言われそうな世界登録遺産が認定しても、普遍的価値があるとは事実として否定される。