バタイユ コミュニカシオン

バタイユはコミュニカシオンと言語との連関で詭弁を用いていることに注意されたい。

 

①「通念とはちがって、言語はコミュニカシオンではないのだ。そうではなくて、コミュニカシオンの否定、少なくとも相対的否定なのだ。」(『有罪者』 バタイユ p133)

 

これは詭弁。バタイユも詭弁と振り返っている。何が相対的否定か曖昧である。

 

②「裂傷の中にこそコミュニカシオンを掴みとる者にとっては、コミュニカシオンとは罪であり、悪である。それは既成秩序の破壊である。」 (『同』 p128)

 

これも詭弁。コミュニカシオンとは罪や悪とは言えないのではないか。

 

コミュニカシオンとは交流であり、交換の場の付属的内実である。交流とは、バタイユいい、という意味がある。

 

コミュニカシオンはコミュニケーションの場で現実的な鍵となる。オンラインゲームでも他者の動かすキャラクターにコミュニカシオンが要請されてくる。商店街においてもコミュニカシオンが必要となってくるであろう。オンラインゲームに限らずその他ゲーム機の展開においてもコミュニカシオンは必須となる。ゲームの内容に女が出てくることはない。女性という設定でキャラクターが操られる。女性は何を企てるか、ニーチェの弁を講じたい。

 

「女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである」 (『人間的な、あまりに人間的な』 ニーチェ p412)

 

『生産的エロス』『構築的エロス』という一線を疑わせる文章(p412) である。女性は自分自身のために行動する、それがエロス的生産であることが懸念される。女性はエロスであるとはいえ、男性も思いのほかエロスである。性の交わりはこうした土台があって、導かれるまま交渉される。

 

性の交わり ニーチェいい

こうした土台があって ニーチェいい

導かれるまま ニーチェいい

交渉される ニーチェいい