主観による主観作業、客観による客観作業という概念を導入してみたい。
主観作業においては、1足す1は何だろう、と考える。そのとき「2」という数字が答えだと発想することがある。この「2」という発想が客観的データである、と私は主張しうる。この「2」という客観的データを行使するとき、客観作業と呼ぶことができよう。
次に応援に関して主観作業を行う。
デジタル大辞泉によると「応援」とは〈①力を貸して助けること。また、その助け。②競技・試合などで、声援や拍手を送って選手やチームを励ますこと。〉
応援とは何だろうか。よくわからなかったとしよう。そこでBさんがAさんに言う。
Bさん「応援っていうのは助けることだね」
Aさん「言われてみればそうだよね」
応援について知らなかったAさんだったが、「助けること」という客観的データを得ることができた。
Aさんは客観作業として「助けること」という意味性の事実に芽生えたのだった。
客観作業をしているあいだは、客観的データを吸収していることも考えられる。
客観的データを集める、ということは、辞書に載っているデータをも包含する。
辞書に載っている言葉の意味は、公式に定義されている内容であろう。
辞書の意味を教えることは、客観的なデータをみずから認めているからである。
相手が大丈夫であることも、知っているのなら認められることであろう。
知っていることや数学という論理的な事象、辞書による定義は認めるほかない。
★認められるものを見つけられたものは、幸いである。 <完>