「語り得ないことについては、沈黙しなければならない」──ウィトゲンシュタイン
私たちは、哲学をしても証明するべく考案することができませんでした。あらゆる哲学者の遺した言葉や記号も、それを証明することはできなかった。
デカルトは、「われあり」という疑いのなく存在する存在を示すことでこれを第一原理だとしましたが、「われあり」と我が存在することを言い切れるに相応しい内容ではないと考えました。
われあり、と言うけど、じゃあどこにあるんだい、という問題が残ります。
懐疑し続けて、やっとひとつ、「われあり」という思想的原点に還ることを私たちは大袈裟に捉えてきました。思うからといってわれがある、とは言えないと反駁されてもおかしくありません。「われあり」と言うとき、われなのか?他我の可能性はどうなのか?と問題は残ります。こうしてパソコンを見ているときも、われではなく、他我で見ている可能性も考えられます。自分というものだと勝手に考えてしまって、本当は他我の意識で見ているのかもしれない。自分と他我を同一視してしまうケースも、幻想として、あるいは夢としてあることが懸念されます。「われ思う」というとき、それが夢である可能性もあります。どちらが自分か分からない意識の転送という相手と自分のチェンジパターンも加味されたい。
こうした幻想を見ていると疑ってしまうとき、夢を見ているとも共時的に疑ってしまうことがある。自己の意識が他者の意識とアッチングすることがあれば、どちらが自分か判別がつかず、主客未分の境地となる。このような主観的に判断することしかできない状況下では、何も信じられない。
ウィトゲンシュタインは、証明不可能性と正否の判断のしにくい諸哲学ばかりであること、もうこんな諸哲学のような語りはやめようぜ、ということで、語り得ないことについては沈黙しなければならない、と論考で最後に言うわけです。