質問者様の言われる「哲学的な判断」の意図するところがいまいちよくわからないのですが、「アプリオリな総合判断」について、敷衍(ふえん)いたします。 これは、「アプリオリな認識にもとづく総合判断」ということです。 アプリオリな認識というのは、経験的なものを一切含まず、ただただ理性の働きを推し進めることによってのみ得られる認識ということです。 通常、私たちの認識というのは、たいてい何らかの経験をベースになされるものですので、それとは違うということですね。 アプリオリな認識として、身近な例でいうと、純粋な数学を考えている場合などが挙げられるでしょうか。 次に、判断には、分析的判断と総合的判断とがあります。 分析的判断というのは、「AはBである」という命題があったとして、Aの中身を分析していくことによって、Bに達することができるという類のものです。 難しく言いかえると、主語概念を分析することによって述語概念を引き出すことができる、とか、述語Bの概念が主語Aの中に含まれているということです。 それに対して、総合的判断とは、主語Aをいくら分析しても、そこからだけでは述語Bには達することができない場合です。Aの概念の外にあるものを持ってこないと、Bを導きだせないということです。 形而上学の判断は、当然ながら、特定の経験に依存しないアプリオリなものであります。 そして、分析(的な命題の)判断はいくら行っても、私の認識が増大することはなく、概念を分解するだけです。 認識を増大させてくれるのは、総合(的な命題の)判断なのです。 したがって、形而上学が本来、究明せねばならないのは、アプリオリな総合的命題です。 だいたい以上、カントの「プロメゴロナ」冒頭部分を私が理解した内容ですが、解答になっていますでしょうか?