ウィトゲンシュタインの多世界解釈

この世界(A)でテレビ番組の収録があり、撮影されているとしよう。Hさんは番組の収録に参加する、と仮定する。

 

Hさんは番組収録後、自分が二人いることに気が付く。もうひとつの世界(B)があると閃いたり、その世界で番組収録がされていたことに思いを馳せる。

 

番組収録が世界(A)と世界(B)では似通っていることも多い。もうひとりの自分はどこで何を考えているのだろう、とHさんは不安になる。

 

hさんは世界Aで起きたことと同一の出来事が世界Bで起きていることも分かってしまう。もしかしたらhさんIIもhさんを探しているのかもしれない。hさんはもうひとりの自分と出会うことができるだろうか。

 

ウィトゲンシュタイン多世界解釈ではこのようなストーリーも築かれるであろう。

 

自分がこの道を通らなくても、もうひとりの自分がこの道を通ったとしたら、この出来事は何というのだろう。Iさんがこの道を通ってなくても別の世界のIさんがこの道を通ったら、Iさんは通ってないと思うかもしれないのにあとで通った、と認める可能性がある。

 

例えば、宝くじで当たってないのに、別の世界でもうひとりの自分が宝くじを当てたら、世界Aの自分は、宝くじを当てたという事実を認め、買ってないけど宝くじを当てた、という事態になるであろう。

 

もしかしたら宝くじを当ててないと世界Aの知り合いに言われるかもしれない。しかし世界Bにいる自分が宝くじを当てたのだから、「いやあ、実は当たったことがある」と話すこともできるであろう。