★話せばわかるか?
話せばわかる、と昔に言い残した人物がいる。話せばわかるなら、わかってほしいことは話せばいいということになるであろう。しかし、話してもわからない事態というのは往々にしてあり得ると私は思う。話せばわかるというのは法則としては成り立たないのである。
このひとつまみに法則と書いたが、女性には三つ編みの髪の結い方ということを話すだけで、女性は自然と理解する。男性は結い方がわからなかったりするものであるのに対して女性はわかったりする。女性にはこういう話がわかるという法則があるのか気になるところである。女性に子どもを授かる気持ちがわからなくもないが、男性にはわからないものだったりする。この事柄は女性には通用する法則であり、女性専用の法則でもある。法則を限定するように、三つ編みの結い方は男性と女性どちらにもわかるわけではなく、おそらく女性や透明人間の女性的な存在だけがわかるという法則として提起することが可能である。二足歩行的に立っているという現象は、男性も女性も透明人間もわかると私は考える。これは二足歩行可能な生命体だけがわかるという法則として提起される一種の材料である。
法則というのは限定的にするにしたがって、いや、限定するからこそ生み出せるものなのであろうか。米粒がわかるためには、米粒を見る必要があるではないか。米粒を見た生命体は米粒がわかる、という法則も考えられる。しかし、米粒を食べた味がわかるために、米粒を見た生命体という段取りで説明することは詭弁であろう。米粒を食べた生命体だけが米粒の味がわかるという法則があるのであろう。
米粒ひとつをつまんでこれが米粒ですよと教えられて米粒を米粒であるとわかる場合も考えられるが、米粒という概念を認識していない外国に住んでいる方は、米粒というものがわからない可能性も考えられる。したがって米粒という概念を理解できる者は米粒を見た者全員であるとは断言できない。米粒を理解できる者が米粒を教えられたらわかる、という消息である。
ヘレンケラーが水を触って理解したように、話せなくてもわかるというものは存在する。