ヘーゲルは世界を修整可能性のあるものと考えました。これが後の止揚という発想に繋がります。ヘーゲルの哲学で有名な止揚の弁証法はどのようなものなのでしょうか。そしてヘーゲルの弁証法はどのように私たちに役立つでしょうか。
イチゴが食べたい、しかも大福が食べたい、というとき、私たちの思考能力で何が導けるのでしょう。【その2種類が食べたいならイチゴ大福を食べなよ】という天啓が聴こえてきたらどうでしょう。「そうか、イチゴ大福を食べればいいんだ」と納得する可能性がありえます。イチゴ大福を食べるという発想としての止揚が弁証法の内容であります。
たんぽぽは否定されなければたんぽぽという存在理由を持たない、と言われます。たんぽぽの外部帯は綿毛の集積であり、その綿毛たちが風に靡いて散らばる、そういうときに初めてたんぽぽは生命性を持ちます。たんぽぽはたんぽぽをやめるからこそ好感度を持たれるし、たんぽぽの綿毛が飛んでまた、地に根付いてたんぽぽを繁殖することにも繋がる可能性があります。これはたんぽぽの繁殖的な外化と言えます。
弁証法としてロッククライミングの途中で修整することがあります。このように手足力を入れ、このように渡っていく、そういう整合性の取れた修整が可能であることの了解がヘーゲル的な思想を理解する上で要となります。ヘーゲルはこうした運動性や発展に心惹かれたのでした。