般若心経は「空(クウ)」について記述した経典ですが死後について記述した経典でもあります。経典に「色即是空・空即是色」と書いてあります。「色」とは「目に見えるもの」であり、「空」は実体が無いという意味ですが、見えない物質でできているという意味です。「色即是空」とは見えてはいる物質も見え無い物質でできている。「空即是色」は実体はないが見える物質であるという意味です。実体がないとは水に映った月のようなものです。水をかき回せば月は見えなくなりますが、月が消えてなくなったわけではありません。これが「色即是空」です。本物の月も昼間は見えなくなりますが、消えて無くなった分けではないので、これも「色即是空」です。 水や氷や雲は「色」であるが水蒸気のように見えなくなれば「空」となる。物質や体のように目に見えているものが「色」であり、物が原子や分子にまで分解されて見えなくなれば「空」になる。植物や動物が食べられ消化されても消滅したのではなく食べた動物の体の中で形を変えて存在し続けている。原子や分子にまで分解され実体が無くなったことを「空」と言うのです。この世界はすべて色と空でできており、物質は色と空を行き来し姿かたちを変えて変化しているだけなのです。それを新たに生じることも無ければ消滅することもない、増えたり減ったりすることもない「不生不滅」「不増不減」であると書いてあります。 般若心経の前半は「空」についての説明ですが中盤からは「是故空中」とあり、空の中はどうなっているのかという説明になっています。空の中では「無色無受想行識」物資や感受性や行動や認識も無い。また「無目耳鼻舌身意」目や鼻や舌や体や意思も無い、何も無い世界であると書いてあります。「心無罣礙」「無有恐怖」と書いてあり、心を妨げるものは無い、恐れさせるようなものが有ることも無いという意味です。これは死後の「空」の中に天国や地獄や霊界などの死後の世界は無いと言っているのです。 「照見五蘊皆空」と書いてありますが「五蘊」とは心と体のことです。よくよく見れば心も体も空であるという意味です。空であるということは消えて無くなることなく永遠に存在し続けるということになります。空の中に天国や地獄は無いが仏教は生まれ変わるというのが基本の考え方なので、この現実(色)の世界にあるということです。
般若心経に「色即是空・空即是色」と書いてあります。「色」とは目に見えている物質です。「空」空間のことです。空間には何も無いと考えているようですが、空間にも空気や水蒸気ホコリや胞子など目には見えない物質が沢山あります。海や川から蒸発した水蒸気は雨となって目に見える色に変わり地上に戻ってきます。山や建物は風化され埃となって空間を漂い地上に戻って物質の一部となります。植物も二酸化炭素を原料に成長し、枯れて土の一部となる。これが「色即是空」「空即是色」です。 水や氷や雲は「色」であるが水蒸気のように見えなくなれば「空」となる。物質や体のように目に見えているものが「色」であり、物が原子や分子にまで分解されて見えなくなれば「空」になる。植物や動物が食べられ消化されても消滅したのではなく食べた動物の体の中で形を変えて存在し続けている。原子や分子にまで分解され実体が無くなったことを「空」に還ったと言うのです。この世界はすべて色と空でできており、物質は色と空を行き来し姿かたちを変えて変化しているだけなのです。それを新たに生じることも無ければ消滅することもない、増えたり減ったりすることもない「不生不滅」「不増不減」であると書いてあります。 この世に存在する物は全て変化しています一年や二年では気づきませんが、30年前40年前と全く変わらない物など存在しません。変化する前の過去の物はどこに行ったのか。それを空に帰ったと言います。従ってこの世に存在する物はすべて空である。自分の身体で言えば子供の時の身体はどこに行ったのか。子どもの時の身体は空に帰ったのです。 「舍利子!是諸法空相,不生不滅、不染不淨、不增不減、非過去非未來非現在。」 (大般若波羅蜜多経第四) 舍利子よ。諸法(この世に存在する全ての物)が本来、空の姿であり、生じない、消滅しない。汚れない、綺麗にならない。増えない、減らない。過去も無く、未来もなく、現在も無い。