2025-05-01から1ヶ月間の記事一覧
ソクラテスは人間である、という命題のソクラテスは個体であるが、人間という概念は類の概念である。 人間の胎内から産まれた赤ちゃんはみな人間である、という命題の赤ちゃんという概念も類の概念である。 ソクラテスという名の普遍性は経験によって判断さ…
教師が顧慮的に生徒を整列させることを顧慮的気遣い、と称する。 ハイデガーは現存在の存在に対して、気遣うことが大事であると述べた。 自分の人生はどうすれば開拓できるか、よりよい人生を選べ、と述べた。 自分が自分自身を気遣うことが大事であるという…
(解釈) 根本的情態性とは現存在の存在の気分のことを指し、現存在の存在の不安や感情的な側面を包括した。 この世界に存在する者であるから世界内存在と呼び、現存在の存在はまたひとつの拠点で暮らす際に拠点内存在と呼ばれる。 拠点内存在やテント内存在…
私たちは映画を見たり本を見たり、見たいものを見ることがよくあります。 記憶するときにも、ネット上の文章をより詳しい内容から記憶しています。 「この文章なら知ってるな」と自分の都合のいいように覚えて、パタッとパソコンをやめる。 そんなケースが多…
道徳観は他者との関連性的な考え方であり、他者を思いやる心を中軸とする。 灯油がなくて困っている運転手の車に民家の人たちが灯油を提供してくれたこと、これは道徳的行為と言えよう。 車の運転手も後日民家の人たちに飲食物をお返しに提供することも道徳…
レヴィナスは「他者の顔」を見て必ずしも責任を負うわけではない、とした。 しかし「他者の悲痛の顔」は、私たちに責任感を抱かせることであることを示唆した。 他者の悲痛の顔に対する応答義務を責任性のある概念である、と考えた。 この責任性のある応答に…
魚釣りをした経験はないだろうか。私は魚を釣ることは罪になると思って忌み嫌っていた。魚釣りは漁師の場合、罪づくりになっている、という話がある。 私は漁師が低レベルなあの世に行くことをも懸念した。私は魚釣りは得意としなくてもいいと考えた。
私たちが何気なく思うにしても、話すにしても、何かを聴いているんですね。 「へえ、何を聴くんだい」 と思う方もいるでしょう。 音楽を聴いたり声を聴いたりしているんですね、街中で流れる音楽も聴いたり横断歩道を渡る際に「ぴよっ」と音声が聴こえる。歩…
存在の形相と質料による形成態、すなわち本質態それ自体の本性をどのように汲み取ることができるか、という点をトマスは考えた。 私は希望論でトマスの思想の一部を扱ったが、いわば本性の希望というものも抱いていたようである。 本性が心的内容の事象であ…
ベストを尽くすのが倫理観的課題である。 ベターでも行うのが道徳の一部である。 お客様にお菓子を配ることを道徳観とし、取り分けベストな食事を出すのが倫理観的立場である。 演劇や舞台で演技のベターではなくベストを尽くすのが倫理的な振る舞いである。…
アーレントとは労働と仕事を別の活動態であると看做し、労働とは、人間が生命の維持の必要から行われるものであり、仕事とは、人間がみずから世界を作るために行われるものである。 労働と仕事が生み出すものも別のものとなる。労働が生み出すものは消費財だ…
ルネ・デカルトは近代哲学の祖とされ、方法序説においては分解・分析方法の考案を打ち立て、すべてを疑うことを覚悟した。 デカルトは「われ思う」ばかり考えていたが、外から「ゆえに」という発言ばかり聞いていた。そのとき「われ思う、ゆえに」という一説…
われ思うゆえにわれあり、と第一原理には記されている。 われ思うの思うとはどういうことか、本当にわれが何かを思うというのか。われは存在しない(無我)のだから、われあるとは言えない。 無我という説が正しいから、われが思うことはなく、思う、という…
仏教はゴータマ・シッダッタという釈迦が築いたというのは偽りです。 釈迦が仏教の開祖と言われていますが、釈迦は悟っていないし、開祖が釈迦であるというのは存在の捏造であります。 仏教では八正道(はっしょうどう)という戒律が定められています。 正し…
目の前にりんごがあり、私たちはそのりんごが赤く見えるとしよう。 それではりんご何色なのであろうか。 皆さんは「当然、赤色だ」と思うかもしれない。 しかし待って欲しい。プレデターにはりんごが青色に見えている、という知識があったらどうだろう。 赤…
自己とは何か。自己のことを自己が判断することは、容易なことのように感じることもある。しかし、自己とは何か、というと透明人間であるとか生命体であるという抽象的な回答を出してしまう可能性がある。 自己とは精神的な存在であり、ハイデガーでいう本来…
バークリー(バークレー)の有名な『存在するものは知覚されている』という言葉がある。これはどういう真意なのか。 存在するものは人間に発見されうるし、知覚されうるものであるということか。 しかし人間に発見されない、認識不可の存在はあるのではない…
偶然には根拠や理由はない、という風潮があるが、本当はどうだろうか。 理由のある偶然の出来事もあるのではないか。1円残らずレジで使ったという出来事もあったことであろう。 偶然再会したという出来事も理由はあるのかもしれない。それは、偶然出会うこと…
Aさん「大丈夫です。いじめられません」 Bさん「大丈夫です。痛くありません」 Cさん「大丈夫です。ムカつかれません」 Dさん「大丈夫です。何とかなります」 大丈夫という言葉はどこでどのように使われるか、言語から世界を分析されたい。 店員「温めますか…
諸事情という言葉は会社の失態ではない自分の失態であるときに、「諸事情によりできません」という風に使われるかもしれないが、これでは相手の会社関係者に怒られるということが懸念される。 諸事情により運動会や宴会が遅延されることもあり、宴会に行きた…
ヘーゲルは「労働は、理想的な個人や、社会へと至るための重要な回路」と位置付ているが、これは「ヘーゲル神」という意味である。 人間は労働を時代にあった場所で強いられる。労働は等価交換のために行う。しかし現存在の存在は誰とも交換することはできな…
カントは理性でも感性でも把握することのできない物自体の存在があることを説いた。 われわれの認識においても、赤いりんごを赤く見えない盲人がいるように、物自体の存在の性質を認識できていない可能性がある。猫の視点ではきゅうりを緑色ではなく赤色に見…
知識を得るために理解しなければならない事柄・内容もたしかに存在していそうである。 1+0.1=1.1 であると頭でわかって知識として確保しているではないか。 0.1は10分の1であると私たちは知っているではないか。 しかし記憶から知識を忘却したら…
純粋な正義という概念について、正義を発揮するさいにピュアな正義というものも加味される。 電車でお年寄りに席を譲ってあげる正義、とはピュアな正義である。 超正義について言えば、時間を惜しまず千羽鶴を折り続けるという超正義。 超絶正義について言え…
自然を凌駕する魔法使いを見て、ぼくたちは勉強ができないのをよそに見入る。魔法使い師は凄いテクニックを持っている可能性があり、その力能を可能性の余地として維持すること、あるいは可能性を信じることが存在可能性なのである。不思議にも魔法使い師は…
自己と自己意識について表題、すなわち「自己意識の理論と工夫」を設けたい。自己に意識が宿ること、それを自己意識の初生と呼ぶ。我々は常に意識することによって行動する。「大変です、意識がないんです、助けてください」と叫ぶシーンを見て取るように、…
日本には恥という文化がある。自己意識では恥たり恥を重んじたりすることが発生する。 意識下では恥というものは扱われない。自己意識において「恥」は対象となる。 罪の意識というのも自己意識で発生する。 恥じるとき、日本に住む方々は大変苦しい思いをす…
「猫には毛が生えている」という命題は、猫という総合名詞を使っており、総じて表記されているため総合的命題であろう。 しかしながら、すべての猫を分析しているため、分析的判断とも言える。 それにしても、先ほどの「猫には~」という命題は、準総合的命…
私たちは何のために文章を読むのだろうか? こう聞くと「面白い文章を読むためかな」と応える者がいるかもしれない。 面白い文章を読むため、というのは一理あるであろう。 しかし、文章を知識として獲得するため、といった方が違和感がない。 情報社会の現…
第一原理である「我おもう、ゆえに我あり」という真実とついていると言われる重要な言説があります。 しかし、実はデカルトは「我おもう、ゆえに我あり」とは書いてない。 (以下WIKI引用) ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogi…