デカルトの第一原理への批判

われ思うゆえにわれあり、と第一原理には記されている。

 

われ思うの思うとはどういうことか、本当にわれが何かを思うというのか。われは存在しない(無我)のだから、われあるとは言えない。

 

無我という説が正しいから、われが思うことはなく、思う、という現象があってもわれという架空のものと現実的に結び付くことはない。思うゆえに思いはある、と現象学的還元をすることはできる。内的体験としての思いというものは全生命体にあるわけではなく、思いや想いを持たない生命体も存在する。われいないと見抜くゆえにわれなし、というロジックも考えられる。私は無我説が正しいと知っている。これも知っている。私は私とは身体であると考えています。もし素粒子レベルの私がいたとして、身体を動かしたとします。すると私が揺り動くことが思い当たります。でも上手くポケットの中に素粒子レベルで収納されているかもしれず、揺り動かない可能性も考えられる。私というものが揺り動くことは起こっては怖いですね。揺り動かないように収納されているのでしょうか。それとも素粒子レベルの私というものは存在しないのでしょうか。課題はまだまだ残る。♡