自我も個我も、人間存在の主体、我という自意識の正体という意味で同じでしょう。 そこで、西洋の哲学者であるデカルトは、我思う故に我あり、としましたが、仏教は、以下のように説きます。 916 師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。 (スッタ・二パータ) つまり、西洋哲学は、自我の実在を疑いようがないものとしましたが、仏教は、それは妄想概念であって実在ではないとした(無我)、ということです。 また、インドの他の宗教では、一般に意識されている自我とは別なる真理としての真実の我、不滅の真我の実在を説きます。そこでは、宇宙の根源としての絶対的な実在(梵)たる「大我」と、そこから派生した個人存在の真我としての「小我」という区分がされることがあります。そして大我と小我は、本来同一であると。いわゆる梵我一如です。 また、仏教では、後世の大乗仏教において、個人の悟りの真理としての大我と、それに気づいていない凡夫の小我という意味合いで使われることがあるようです。
仏教では自我を否定的にとらえるが、個我の場合はどうか、という質問があった。
個我の場合も否定的にとらえるという説もあるであろう。
個我の意味は自我ですからね、自我と同等にとらえることもできます。