仏教における性起説と性具説の違いについて教えてください。 私のあやふやな解釈ですと、性起説が何もしなくても世界が悟りそのものだからその一部である人間も悟っている、性具説は悟る可能 性を秘めているので頑張れば悟れる、というものなのですが、合っていますでしょうか? 全く箸にも棒にもかからない解釈でしたら、わかりやすく教えていただけないでしょうか? よろしくお願いします。
(以上と以下引用)
私もお坊さんではないので理解している範囲で説明します。 性起説と性具説というのは仏性(仏様の性質、悟りに至る性質)が人間を含む衆生にどのように具わっているのかという考え方です。 性起説と言うのは、仏性は穢れのない真理であり、全ての衆生が本性としてこれを持っているのだけれども、迷いの心などが邪魔をしてこの本性を見出す事ができない。という考え方です。ですから自らのうちにあるこの本性を見出す事が悟りに至る道である。と言う事になります。 一方で、煩悩のような悪性は外から降りかかるものであり、内部に持っているのではないと考えます。
性具説というのは仏も衆生も自らのうちに仏性だけでなく煩悩も具わっていると考えます。要するに自らのうちに善も悪も両方持っているのだと言う考え方です。 この場合の悟りと言うのは、内部にある悪性に打ち勝ち悪い部分を現さないことであるということになります。 仏であっても内部には煩悩を持ち、地獄に落ちた者であっても内部には仏性を持っているというのが性具説です。 ですから、性起説に基づく宗派では悟りとは内にある仏性に気づく事、見極める事であるのに対し、性具説に基づく宗派では悟りとは内にある煩悩と戦い打ち勝ち続ける事なんだと私は理解しています。
自らのうちに煩悩を持つのを性具説で語り得るが、性起説では煩悩のような悪性は外から降りかかるものであると語り得る。