ウィトゲンシュタインが「論考」で論理空間というワードを用いて述べている。この論理空間では、一対一という関係性で世界を写し取ることが推奨される。「机の上に本がある」という命題があるとき、「机の下に本がある」という命題は成立しない。
百歩譲って仮に机の下にも本を置くなら、それはそれで成立したことがらである。
また、「机の上に本がある、という命題が正しいけど、机の下に本が在らないことにはならない」という考えもあろう。しかし私は「机の下に本がないことを前提に」述べているのである。机と本が結びつく現実的な案として、机の上に本がある、という命題を提示し、かつ机の下に本がない、という命題を提示したのである。
事実と事態の区別も明確にしてみたい。
諸命題によって写像されるのが諸事態であり、そうした諸事態のうち真なる諸命題によって写像されるのが諸事実である(そして諸事態の残りのものは偽なる諸命題によって写像される)。
★事実の総体は変化しない
成り立っていることがらが事実である。何が事実かが変わるのではなく、何が事実ではないかが変わる。この世界に未だに起きていないことがらの諸事態が起きるというのが反事実的な可能性がこの世界に新たな展開として考慮される。
本があるとき、本はないとは言えまい。本があるとき、本はないということがらは成立しないはずである。しかし、「ゴミ袋の中に本があるとき」、と限定したとき、「押入れの中に本はない」と限定して言えるのである。事実から何を学ぶか、それも大切である。