哲学の目的は思考の論理的明晰化である。 哲学は学説ではなく、活動である。 哲学の仕事の本質は解明することにある。 哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。 思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。 — ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、2003年、51頁より
ウィトはこのように述べ、哲学を「明確化」と関連すると考えた。
諸命題の分析に入る際には「対応理論」が関連するということ、ウィトの考えでは「写像理論」が関連していた。
As for me, 対応理論も写像理論も同じではないか。ウィトはここを踏まえて写像理論という言葉を使った。
「Aという本が机の上にあるとき、Aという本は別の場所にはない」という命題もある。たしかに同じタイトルの本なら、別の場所にあってもおかしくはないかもしれない。しかし、同じタイトルの本があっても、個別的なこの一冊(素粒子も含め)は一冊しかないため、この本が別の場所に存在することはない。
「Aという犬が犬小屋にいるとき、Aという犬は道路にはいない」という命題もある。この犬と同じ種類の犬やそっくりな犬はいるかもしれない。しかし、この個別的な犬(素粒子含め)は犬小屋以外のどこかに存在してはいない。
★発展
・そうはいうけど、クローン複製術で犬をもう一体出したら、その犬は二つあるんじゃない?
その場合、クローンの犬と純粋な犬に分かれるため、同じ存在とはいえまい。