経験したものを私たちは認識し、それをたよりにして判断・行動をしていく。そうであるからこそ、経験は重要部を占める概念であり、経験が大事であると経験論者は考える。
これに対し、合理論者は経験したものを理性で見極めるといった人間の知能が重要であると考えた。
カントは、神が私たちに対象を与えてくれて、神本位の生き方を大事にしていたという考え方を覆そうとした。人間の理性によって対象を詳らかにするのだという、いわば自分で生きろ、と警告した。神本位から自己本位に生きようと提案した。(※①夏目漱石を参照)
夏目漱石は他人本位でいたが、自己本位に辿り着くことができた。カントの話を知っていたからであろうか。このように哲学的なことを公にされると、誰かの人生を……
それはおいといて、カントは合理論と経験論についてどう述べたか。
カントは、「経験を整理し認識する能力」がなくては、私たちは、感性に与えられたものを経験として認識できない、というアイデアを出した。
つまり、我々に来る情報を整理し、経験とする能力が、前もってなければ、我々は経験できません。経験、というが経験できる、という能力があるから経験できるのだ、ということですね。
認識とは、外部から来る情報(経験論)と、整理する能力(合理論)により、はじめて可能になる、ということですよね。つまり「経験論と合理論を総合した」ということですかね。
こんな感じでどうか。人間には三角形の認識形式が具わっている、とは皆さんおわかりでしょう。三角形の認識形式は経験によって生まれたのではなく、本来あった情報獲得でしょう。理性的判断や感性的判断も重要視されることがある。このように経験だけでなく、人間の本来持っている能力を合理論者は大事にしていた。しかし経験論者は経験をしなくては、理性や感性の出る幕はない、と考えていたのです。